岡山県立美術館で開催されていた「長谷川等伯と雪舟」が先週終わった。約1ヶ月間の開催中に10回以上も美術館に行ったが、この展覧会をみることはなかった。いつも裏口の警備室から入って事務所に行き、学芸員と「長谷川等伯と雪舟」の次に開催する「野崎家コレクション」の図録の打ち合せに行っていたからだ。制作が遅れて美術展を見て回る心の余裕を失っていた。やっとのことで開催日の前日に納品をすることができた。
さて、その「野崎家コレクション」は現在開催中。「塩田王」と呼ばれ莫大な財を築いた野崎家(倉敷市児島)のコレクションから約100点をセレクトして展示している。野崎家の方も、こうして一同に並べて展示するのは初めてという。
初日に拝見させてもらった。展示物を観て気づくのは、掛軸などの作品の大きさと、岡山県内の作家の作品が多いこと。掛軸といえば床の間に掛けるぐらいのものを想像するが、100畳の間に掛けるような巨大なもの(野崎家には100畳の部屋が実際にある=たい暇堂)が多い。そして洋画家の原撫松や文人画家の浦上玉堂、漢学者の三島中洲をはじめ、石井金陵、柚木玉邨、古市金峨、岡本豊彦など岡山ゆかりのある作家(これまで知らなかった)の作品が目につく。名前の売れていない才能ある画家を宿泊させ、逗留中に描かせた作品もあるそうだ。野﨑家の当主はロシアに留学させた小西益太郎など、人に投資し社会に金を出している。野崎武左衛門は江戸時代に「家訓七か条」を遺しており、その中で既に「公共の利益」をうたっている。
バブル期に企業のメセナが流行ったことがあったが、今も続いている企業がどのくらいあるのだろう。金持ちになったときのお金の使い方で、その人の品性が見えてくる。従業員や地域社会のため、文化度の向上のためにどのくらい使えるか。最近、製紙会社の創業家出身の前会長が数十億の金をカジノの豪遊につぎ込んでいたことが事件になっていたが、これなんかどうなんでしょう?
今回の「野崎コレクション」は、野崎武左衛門の孫で、貴族院議員でもあった武吉郎の時代のものが多い。倉敷の大原孫三郎といい、名を残すリーダーの共通点を感じる。
岡山県立美術館での「野崎コレクション」は4月8日まで。
さて、その「野崎家コレクション」は現在開催中。「塩田王」と呼ばれ莫大な財を築いた野崎家(倉敷市児島)のコレクションから約100点をセレクトして展示している。野崎家の方も、こうして一同に並べて展示するのは初めてという。
初日に拝見させてもらった。展示物を観て気づくのは、掛軸などの作品の大きさと、岡山県内の作家の作品が多いこと。掛軸といえば床の間に掛けるぐらいのものを想像するが、100畳の間に掛けるような巨大なもの(野崎家には100畳の部屋が実際にある=たい暇堂)が多い。そして洋画家の原撫松や文人画家の浦上玉堂、漢学者の三島中洲をはじめ、石井金陵、柚木玉邨、古市金峨、岡本豊彦など岡山ゆかりのある作家(これまで知らなかった)の作品が目につく。名前の売れていない才能ある画家を宿泊させ、逗留中に描かせた作品もあるそうだ。野﨑家の当主はロシアに留学させた小西益太郎など、人に投資し社会に金を出している。野崎武左衛門は江戸時代に「家訓七か条」を遺しており、その中で既に「公共の利益」をうたっている。
バブル期に企業のメセナが流行ったことがあったが、今も続いている企業がどのくらいあるのだろう。金持ちになったときのお金の使い方で、その人の品性が見えてくる。従業員や地域社会のため、文化度の向上のためにどのくらい使えるか。最近、製紙会社の創業家出身の前会長が数十億の金をカジノの豪遊につぎ込んでいたことが事件になっていたが、これなんかどうなんでしょう?
今回の「野崎コレクション」は、野崎武左衛門の孫で、貴族院議員でもあった武吉郎の時代のものが多い。倉敷の大原孫三郎といい、名を残すリーダーの共通点を感じる。
岡山県立美術館での「野崎コレクション」は4月8日まで。
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今年になって、わが社は全員がスマートフォンを持った(4人だが)。今年になってドコモの通信障害が起きているのは、スマホの急速な普及によるものだという。データの通信量が処理能力をオーバーしたのが原因らしい。スマートフォンは普及している。
私はスマートフォンにして2年ほどになる。電話とメール、カメラのほかに重宝しているのは、スケジュール管理などのグーグルのサービス。紙の手帳は買わなくなった。それにネット上のデイスクスペースを使うストレージサービスなど。よく使うアプリは、情報のスクラップ、ニュース、天気予報、メモ、辞書、計算機、小遣い帳、ラジオ、twitterなどのソーシャルメデア、iPodの音楽…。
スマートフォンやPCを使って調べたり買い物ができたりと、IT技術で何でもネットでできるようになった。使うほど依存度が高くなり、使っているとあっという間に時間が過ぎる。数年前から、PCに向かわなければ仕事にならないほどになっている。確かに、IT機器から離れて過ごす「IT断食」も必要だ。
これから2、3年もすると社会全体のIT依存度もかなさらに上がってくるだろう。依存度が高くなればなるほど、これらの機器が使えなくなったことを思って不安になることがある。結局のところ、グーグルやアマゾン、アップルなどのアメリカ企業のうえに乗っかっているわけで、これらの会社の事情でかってにフォーマットを変え、アプリやネットのサービスを終了させたら…。はたまたアメリカと日本が国際問題になって対立したら…(考え過ぎか)。
便利なサービスと機能は使っていけばいいが、大事なものはアナログで保存しておこうとどこかで思っている。確かに便利だからその便利さはを利用して、本当に大切なものは物で残しておいた方がいい。いつかこの便利さのしっぺ返しが来そうだ。デジタルはあくまで「プラスアルファ」と思って使いこなしたい。
私はスマートフォンにして2年ほどになる。電話とメール、カメラのほかに重宝しているのは、スケジュール管理などのグーグルのサービス。紙の手帳は買わなくなった。それにネット上のデイスクスペースを使うストレージサービスなど。よく使うアプリは、情報のスクラップ、ニュース、天気予報、メモ、辞書、計算機、小遣い帳、ラジオ、twitterなどのソーシャルメデア、iPodの音楽…。
スマートフォンやPCを使って調べたり買い物ができたりと、IT技術で何でもネットでできるようになった。使うほど依存度が高くなり、使っているとあっという間に時間が過ぎる。数年前から、PCに向かわなければ仕事にならないほどになっている。確かに、IT機器から離れて過ごす「IT断食」も必要だ。
これから2、3年もすると社会全体のIT依存度もかなさらに上がってくるだろう。依存度が高くなればなるほど、これらの機器が使えなくなったことを思って不安になることがある。結局のところ、グーグルやアマゾン、アップルなどのアメリカ企業のうえに乗っかっているわけで、これらの会社の事情でかってにフォーマットを変え、アプリやネットのサービスを終了させたら…。はたまたアメリカと日本が国際問題になって対立したら…(考え過ぎか)。
便利なサービスと機能は使っていけばいいが、大事なものはアナログで保存しておこうとどこかで思っている。確かに便利だからその便利さはを利用して、本当に大切なものは物で残しておいた方がいい。いつかこの便利さのしっぺ返しが来そうだ。デジタルはあくまで「プラスアルファ」と思って使いこなしたい。
先週はこの冬一番の寒気に覆われ、岡山でも厳しく冷え込んだ。中国山地沿いは大雪に見舞われ、奈義町では氷点下15度を超えて観測史上最低だったという。そんな寒い日、久しぶりに津山市に出かけた。車で市内を走っていて幹線道路沿いの空き店舗が多いのが気になった。寒さだけでなく、地方都市の経済も厳しいようだ。
津山市を中心に美作は、来年の2013年が「美作国」を建国して1300年目の年になるそうだ。最初に「美作国建国1300年」と聞いたとき、2年前の「平安遷都1300年」を連想して、盛り上がろうとしているんだろうと思った。でも冷静に考えると、「建国」いうには違和感が残る。1300年前に美作の人たちが自主独立して国を築いたのではなくて、大和政権によって吉備国を分割されて美作国ができたのではなかったのか。つまり「建国」ではなく「分国」では。
吉備はもともと現在の岡山県と広島県東部の範囲だったが、大和によって飛鳥浄御原令で備前国、備中国、備後国に3分割される。それから20年後ぐらいの710年に備中国を分割して美作国ができる。中央政権によって地方勢力が分断されていく過程で、美作国は誕生するわけだ。
「分国」を「建国」で盛り上がるにはどうしたらいいか。それは地元の人たちが美作を主体的に「再建」する気持ちでやるしかない。主体的になるためには、地域の古代の歴史を知り、古代の吉備、さらに日本の古代史に結びつけて考えることが出発点になるのではないか。イベントの消化に終わらないように、応援できるものなら応援したいと思う。
まっ、とにかく、「美作国建国1300年」が「平安遷都1300年」のように盛り上がってほしいと期待している。ちなみに今年は『古事記』がまとめられて1300年だそうだ。
津山市を中心に美作は、来年の2013年が「美作国」を建国して1300年目の年になるそうだ。最初に「美作国建国1300年」と聞いたとき、2年前の「平安遷都1300年」を連想して、盛り上がろうとしているんだろうと思った。でも冷静に考えると、「建国」いうには違和感が残る。1300年前に美作の人たちが自主独立して国を築いたのではなくて、大和政権によって吉備国を分割されて美作国ができたのではなかったのか。つまり「建国」ではなく「分国」では。
吉備はもともと現在の岡山県と広島県東部の範囲だったが、大和によって飛鳥浄御原令で備前国、備中国、備後国に3分割される。それから20年後ぐらいの710年に備中国を分割して美作国ができる。中央政権によって地方勢力が分断されていく過程で、美作国は誕生するわけだ。
「分国」を「建国」で盛り上がるにはどうしたらいいか。それは地元の人たちが美作を主体的に「再建」する気持ちでやるしかない。主体的になるためには、地域の古代の歴史を知り、古代の吉備、さらに日本の古代史に結びつけて考えることが出発点になるのではないか。イベントの消化に終わらないように、応援できるものなら応援したいと思う。
まっ、とにかく、「美作国建国1300年」が「平安遷都1300年」のように盛り上がってほしいと期待している。ちなみに今年は『古事記』がまとめられて1300年だそうだ。
親のことならまだしも、親の親より前の世代のことをどれくらい知ってるだろうか。祖父祖母のことぐらいまではなんとか聞いてはいるが、それ以上の世代になるともう分からない。
最近、祖父の「死」について知る機会があった。「戦死」とは聞いていたが、死後に届いたという「戦死者履歴表」というものを見せられたからだ。昨年秋、『岡山歩兵第十連隊史』という古い本と巡り会った。この本を実家に持ち帰り開いてみると、祖父の名前があった。母親に見せると、古いタンスの木箱から「戦死者履歴表」を取り出してきた。祖父の上官が手書きしたもので、死後直後に遺族に送ってきたものだ。祖父の戦死は、昭和12年の32歳のときだった。支那事変の引き金となった盧溝橋事件が起きた年だ。著作権も切れているし、長くなるがこの履歴表を史料として記しておく。
「戦死者履歴表」 (※満州の地名に当て字を使用)
所属:歩兵第十連隊第八中隊 職:指揮班
死亡月日時:九月二十八日 死亡場所:興済鎮野戦病院
事由:戦傷死
【戦傷死までに於ける経歴の大要】
動員下令により、昭和十二年 月 日歩兵第十聯隊に応召集、同日第八中隊となり、八月十日神戸港出帆、八月十五日太沽(中国)上陸。その後、行軍して十八日に天津着。二十日津浦沿線掃討のため同地出発。楊柳青、良王荘を経て、同月二十二日に駅警備のため再び楊柳青に帰還。二十六日に同地出発、静海に着。軍旗の下に参す、二十九日陳官屯を攻撃に大隊の右側衛として参加。九月四日唐官屯攻撃に於いて聯隊予備隊として軍旗を護衛、(九月五日〜九月九日)間に大張屯において聯隊予備隊、同日後、屯の大隊復帰、九月十日馬厥攻撃に決死大隊として参加。(九月十一日〜九月二十日)師団予備として青縣駐留、滄州攻撃の為二十一日興済鎮を出発。
【戦傷死当時の奮闘状況調製官の所見】
馬厥が陥落するや疲労を慰する寸暇もなく敵を猛追撃して滄州に迫り、準備すること十日間我磯谷兵団の作戦全く整い、吾々将兵は今や遅しと前進命令を鶴首す、当時、我赤柴部隊は師団右翼隊の第一線として第一大隊を最前線に展開せしめ直ぐ至近に於いて敵を睥睨〔へいげい・にらみつける〕す、二十一日に突如、攻撃前進の命下り一勢に前進を開始し彼我の銃砲声殷々として耳を聾し壮烈の極みなり。我第二大隊は聯隊予備隊として第一大隊の直後を弾雨を潜りて前進を継続す、滄州陣地は所謂最後の抵抗線として特に宋哲元の重要視せし所にして其陣地たるや水壕、鉄条網、掩蓋を以て形成し、実に堅固を極め多数の督戦隊を背後に配して退却を戒め以て死物狂いの抵抗を試みたり。猛攻に猛攻を重ねて主陣地の第一線を攻略し続いて第二線西花園陣地に向かい攻撃中に夜に入り多大の犠牲に屈せす益々敵気心を湧起し夜襲を決行して隊次肉迫中、第一大隊と第一線を交代、堅陣を攻撃すべしとの聯隊命令を二十三日午前八時受領、中隊は直ちに浸水のため狭隘〔きょうあい・狭い〕(攻撃正面三〇メートル)なる陣地に於いて第一中隊と交代力攻めを開始す、斜射側射の壕外に身を躍らして突入し、掩蓋重機の的たる壕内に手榴弾を投擲しつつ肉迫し白兵を以て敵を刺殺しつ、午後五時遂に西花園北端に前進す、此に於いてか敵の抵抗益々猛烈にして適陣地を百メートルに控え夜に入る、中隊長は諸般の状況を考察し西花園陣地奪取のためには夜襲決行に過かすなし之しか準備を周到に第二小隊、中隊長、第三小隊、第一小隊の順序に午前二時二十分遂に前進を開始す、伍長は中隊指揮班要員として常に軽快機敏に弾雨を潜りて連結に任じもっぱら中隊長の指揮を容易ならしめたり、壮烈なる夜襲により陣地の一角を占領し払暁と共に歩砲の協同宜しきを得、中隊突撃に移り、伍長は最先頭に銃剣を振りて前進中、敵前百メートル付近に到りし際、敵砲弾に左腕に重傷を受け、切断手術するの止むなきに至れり、以来興済鎮野戦病院において加療中の所九月二十八日、遂に他界せり。
奮戦の状況以上の如く、決死報公の誠を尽せしものにして真に軍人の亀鑑(模範・手本)として敬仰すべき人物と認む。
祖父は、最初の徴兵を近衛兵として東京に赴いた。帰還してすぐにまた徴兵され、赤柴隊という岡山出身者の部隊に配属。中国に赴いて前線で闘い、銃弾を受けて野戦病院で戦死している。日中戦争の初期のころは、上官がこうした戦死履歴を書く余裕もあったのだろう。孫である私がこれを読んで、祖父が中国大陸で非人道的なことをするような人物でなかったことにほっとして、それを誇りにも思った。
戦死した祖父には、当時4歳と1歳の子どもがいた。4歳だったのが私の母親だ。戦争未亡人となった祖母は、女手一つで2人を育てるのに苦労している。
この満州事変から太平洋戦争へと突き進み、昭和20年に敗戦。軍人も一般市民も含めて何百万人もの人が死んだ。暴走した軍部上層部(国家)の責任は重い。
昭和初期を入口にして、もう少し「昭和史」の森に分け入っていこうと思う。日本史の入口へは、地方からでも、個人的なことからでも、どの時代からでも入っていける。
最近、祖父の「死」について知る機会があった。「戦死」とは聞いていたが、死後に届いたという「戦死者履歴表」というものを見せられたからだ。昨年秋、『岡山歩兵第十連隊史』という古い本と巡り会った。この本を実家に持ち帰り開いてみると、祖父の名前があった。母親に見せると、古いタンスの木箱から「戦死者履歴表」を取り出してきた。祖父の上官が手書きしたもので、死後直後に遺族に送ってきたものだ。祖父の戦死は、昭和12年の32歳のときだった。支那事変の引き金となった盧溝橋事件が起きた年だ。著作権も切れているし、長くなるがこの履歴表を史料として記しておく。
「戦死者履歴表」 (※満州の地名に当て字を使用)
所属:歩兵第十連隊第八中隊 職:指揮班
死亡月日時:九月二十八日 死亡場所:興済鎮野戦病院
事由:戦傷死
【戦傷死までに於ける経歴の大要】
動員下令により、昭和十二年 月 日歩兵第十聯隊に応召集、同日第八中隊となり、八月十日神戸港出帆、八月十五日太沽(中国)上陸。その後、行軍して十八日に天津着。二十日津浦沿線掃討のため同地出発。楊柳青、良王荘を経て、同月二十二日に駅警備のため再び楊柳青に帰還。二十六日に同地出発、静海に着。軍旗の下に参す、二十九日陳官屯を攻撃に大隊の右側衛として参加。九月四日唐官屯攻撃に於いて聯隊予備隊として軍旗を護衛、(九月五日〜九月九日)間に大張屯において聯隊予備隊、同日後、屯の大隊復帰、九月十日馬厥攻撃に決死大隊として参加。(九月十一日〜九月二十日)師団予備として青縣駐留、滄州攻撃の為二十一日興済鎮を出発。
【戦傷死当時の奮闘状況調製官の所見】
馬厥が陥落するや疲労を慰する寸暇もなく敵を猛追撃して滄州に迫り、準備すること十日間我磯谷兵団の作戦全く整い、吾々将兵は今や遅しと前進命令を鶴首す、当時、我赤柴部隊は師団右翼隊の第一線として第一大隊を最前線に展開せしめ直ぐ至近に於いて敵を睥睨〔へいげい・にらみつける〕す、二十一日に突如、攻撃前進の命下り一勢に前進を開始し彼我の銃砲声殷々として耳を聾し壮烈の極みなり。我第二大隊は聯隊予備隊として第一大隊の直後を弾雨を潜りて前進を継続す、滄州陣地は所謂最後の抵抗線として特に宋哲元の重要視せし所にして其陣地たるや水壕、鉄条網、掩蓋を以て形成し、実に堅固を極め多数の督戦隊を背後に配して退却を戒め以て死物狂いの抵抗を試みたり。猛攻に猛攻を重ねて主陣地の第一線を攻略し続いて第二線西花園陣地に向かい攻撃中に夜に入り多大の犠牲に屈せす益々敵気心を湧起し夜襲を決行して隊次肉迫中、第一大隊と第一線を交代、堅陣を攻撃すべしとの聯隊命令を二十三日午前八時受領、中隊は直ちに浸水のため狭隘〔きょうあい・狭い〕(攻撃正面三〇メートル)なる陣地に於いて第一中隊と交代力攻めを開始す、斜射側射の壕外に身を躍らして突入し、掩蓋重機の的たる壕内に手榴弾を投擲しつつ肉迫し白兵を以て敵を刺殺しつ、午後五時遂に西花園北端に前進す、此に於いてか敵の抵抗益々猛烈にして適陣地を百メートルに控え夜に入る、中隊長は諸般の状況を考察し西花園陣地奪取のためには夜襲決行に過かすなし之しか準備を周到に第二小隊、中隊長、第三小隊、第一小隊の順序に午前二時二十分遂に前進を開始す、伍長は中隊指揮班要員として常に軽快機敏に弾雨を潜りて連結に任じもっぱら中隊長の指揮を容易ならしめたり、壮烈なる夜襲により陣地の一角を占領し払暁と共に歩砲の協同宜しきを得、中隊突撃に移り、伍長は最先頭に銃剣を振りて前進中、敵前百メートル付近に到りし際、敵砲弾に左腕に重傷を受け、切断手術するの止むなきに至れり、以来興済鎮野戦病院において加療中の所九月二十八日、遂に他界せり。
奮戦の状況以上の如く、決死報公の誠を尽せしものにして真に軍人の亀鑑(模範・手本)として敬仰すべき人物と認む。
祖父は、最初の徴兵を近衛兵として東京に赴いた。帰還してすぐにまた徴兵され、赤柴隊という岡山出身者の部隊に配属。中国に赴いて前線で闘い、銃弾を受けて野戦病院で戦死している。日中戦争の初期のころは、上官がこうした戦死履歴を書く余裕もあったのだろう。孫である私がこれを読んで、祖父が中国大陸で非人道的なことをするような人物でなかったことにほっとして、それを誇りにも思った。
戦死した祖父には、当時4歳と1歳の子どもがいた。4歳だったのが私の母親だ。戦争未亡人となった祖母は、女手一つで2人を育てるのに苦労している。
この満州事変から太平洋戦争へと突き進み、昭和20年に敗戦。軍人も一般市民も含めて何百万人もの人が死んだ。暴走した軍部上層部(国家)の責任は重い。
昭和初期を入口にして、もう少し「昭和史」の森に分け入っていこうと思う。日本史の入口へは、地方からでも、個人的なことからでも、どの時代からでも入っていける。
マラソン大会にエントリーした。この大会のフルマラソンは既に定員オーバーで締め切っていたので、ハーフで出場することにした。東京や大阪、神戸などのマラソン大会も高い倍率で、マラソンブームなのだそうだ。岡山市街地でのマラソン大会も検討されているという。
体力づくりでジョギングを初めてもなかなか長続きしない。こうした大会にエントリーすることで、目標にできる。大会があるから練習を始め、走るのが習慣になればしめたもの。私は最初3キロのレースに子どもと一緒に参加した。その時は筋肉痛がひどかった。それからレースの距離を少しずつ伸ばし、5年後にフルマラソンを完走できた。
マラソンブームを背景に、アスリートやトレーナージョギングの本がたくさん出ている。私もこれまでいろいろ読んだ。最初は青井浩著『忙しいビジネスマンが3ヶ月でフルマラソンを完走する方法』だったが、読んだだけでそんな無茶ができるわけがない。有名な小出義雄著『マラソンは毎日走っても完走できない』は、Qちゃんや有森さんの名前が出ると、「オリンピック選手と一緒にされても困るなあ」と急に面白くなくなる。そこで読んだのが市民ランナーが100回のマラソンに出場したという原章二著『マラソン100回の智慧』。この著者も普通の人と違う「鉄人」だった。中野ジェームス修一著『ラニングの作法 ゼロからフルマラソン完走を目指す75の知恵』などは準備運動はしなくていいなどと奇抜なことを言う。そのほか、走るフォームや練習法などの本も読んだが、読んで記録が上がり役にたったという実感はまったくない。
そんな中で「人はこんなに走れるんだ」と勇気を与えてくれるのが岡﨑圭著『走る人! 鹿児島─青森30日間2300キロ激走日誌』。著者が岡山市在住ということで、親近感がある。30日間毎日、80キロ近くを走り続けたドキュメントは、とにかく前に前に進む緊迫感が記憶に残り、自分が走っているときに前に押し出してくれる。
そしてもう1冊は、村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』。村上さんがマラソンランナーとして走ってきたレースや練習のことを書いている。これがいい。あの文学の村上さんが走るのだから、自分も走ろう、村上さんが走れるのだから自分も走れると、村上マジックにかかってしまう。この本が、私の走るモチベーションを最も上げてくれた。
体力づくりでジョギングを初めてもなかなか長続きしない。こうした大会にエントリーすることで、目標にできる。大会があるから練習を始め、走るのが習慣になればしめたもの。私は最初3キロのレースに子どもと一緒に参加した。その時は筋肉痛がひどかった。それからレースの距離を少しずつ伸ばし、5年後にフルマラソンを完走できた。
マラソンブームを背景に、アスリートやトレーナージョギングの本がたくさん出ている。私もこれまでいろいろ読んだ。最初は青井浩著『忙しいビジネスマンが3ヶ月でフルマラソンを完走する方法』だったが、読んだだけでそんな無茶ができるわけがない。有名な小出義雄著『マラソンは毎日走っても完走できない』は、Qちゃんや有森さんの名前が出ると、「オリンピック選手と一緒にされても困るなあ」と急に面白くなくなる。そこで読んだのが市民ランナーが100回のマラソンに出場したという原章二著『マラソン100回の智慧』。この著者も普通の人と違う「鉄人」だった。中野ジェームス修一著『ラニングの作法 ゼロからフルマラソン完走を目指す75の知恵』などは準備運動はしなくていいなどと奇抜なことを言う。そのほか、走るフォームや練習法などの本も読んだが、読んで記録が上がり役にたったという実感はまったくない。
そんな中で「人はこんなに走れるんだ」と勇気を与えてくれるのが岡﨑圭著『走る人! 鹿児島─青森30日間2300キロ激走日誌』。著者が岡山市在住ということで、親近感がある。30日間毎日、80キロ近くを走り続けたドキュメントは、とにかく前に前に進む緊迫感が記憶に残り、自分が走っているときに前に押し出してくれる。
そしてもう1冊は、村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』。村上さんがマラソンランナーとして走ってきたレースや練習のことを書いている。これがいい。あの文学の村上さんが走るのだから、自分も走ろう、村上さんが走れるのだから自分も走れると、村上マジックにかかってしまう。この本が、私の走るモチベーションを最も上げてくれた。
プロフィール
HN:
執筆:金澤健吾
性別:
男性
自己紹介:
吉備人出版 取締役。
方谷研究会。
おかやま自転車ネット。
twitter/kibitoman
岡山の古代・中世・戦国・近世など郷土史大好き。岡山本も大好き。自転車、ジョギング、自然好き。ジャズ、ロックなど音楽好き。子育て中。
方谷研究会。
おかやま自転車ネット。
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