『吉備の古代史事典』の著者・薬師寺先生の逆鱗(げきりん)に触れてしまった。
少し前、薬師寺先生から電話を受けた際に「人物など項目の抜けがあってはいけないので、見ておいて」と言われていた。校了が近くなったようなので、担当の山川氏からゲラを見せてもらい索引を見ていくと、「H古墳」があった。これは、同じ著者の既刊『考えながら歩く吉備路 下』(2009年刊)にも同じ表記で載っており、以前、読者で古墳好きのW氏から「あの古墳には名前が付いているよ」と言われていた。
この古墳はサントピア岡山総社(旧厚生年金休暇センター)の東にある古墳で、近くには「秦上沼古墳」がある。昨年、そのサンピアの西の山の尾根で、巨大な前方後方墳「一丁グロ古墳」が発掘された。この現地説明会で配布された総社市教育委員会のレジメ資料には、「秦上沼古墳」の近くに「秦大グロ古墳」が記してあり、その他に近くに古墳の表記はない。この資料は私も見ていた。W氏は、「H古墳」は「秦大グロ古墳」と名前があるのに、なぜイニシャルで呼ぶのかと思っていたのだ。
『吉備の古代史事典』のゲラを見て、私が「H古墳には名前がついているのでは」と発言したことがお叱りを受ける発端だった。電話口で先生は、「つまり、わしが書いていることが信用できんということか」「君はH古墳に行ったんか。見て言いよんか」と言いながら次第に興奮しはじめた。私は思わず「総社の教育委員会で確認してみます」と言った。これがさらに火に油を注いだ。先生は激怒して「この古墳は3人しか知らん。近くにあった神社の宮司と近藤義郎先生(考古学者)。二人とも亡くなったんで、わししか知らん古墳じゃ。総社の教育委員会が知るわけながろうが。わしを疑って教育委員会の方を信用しとんじゃな」と。もう収拾がつかなくなっていた。私は謝るしかなかった。そのうちに電話が切れた。
しばらくして夕方、再び先生から電話があった。「君は謝りに来る言うといて、来るんか来んのか。来るんなら何時にくるのか。黙って人の家にくるなあ、失礼じゃろうが!」。私は「すぐ行きます。6時半には行きます」と伝えて、山川氏と二人で薬師寺邸に向かった。(※薬師寺邸でのことは9月6日山川ブログ参照)。失礼な発言をしたこと、教育委員会に確認しようとしたことなどを深くお詫びをした。しばらくすると、先生は少し穏やかな表情になって、「H古墳」のことを説明をしてくれた。
大和には特殊器台の破片が出る古墳が、箸墓古墳と中山大塚古墳、西殿塚古墳の3つある。吉備では矢藤山古墳と宮山古墳の2つ。かつて、この「H古墳」に近藤義郎先生と連れ立って行ったとき、近藤先生は土器を拾って「都月型か、その前の型かもしれんなあ」と言ったという。もしこの「H古墳」を発掘して宮山型の特殊器台が出たとなれば、吉備でも3つとなる。重要な前方後円墳古墳だという。
このことを私なりに解釈すると…。「H古墳」を発掘調査して特殊器台のことがはっきりすれば、全国に普及していった前方後円墳の発生に吉備が深くかかわり、吉備とヤマト政権との深い関係を解明することになる。もし宮山型特殊器台が出たとなれば、吉備とヤマトの関係を示す物証が吉備に1つ増えることになり、最古の前方後円墳が大和にあるのか、吉備にあるのかも分かることになるかもしれない。日本考古学史上、極めて重要な問題を秘めていることになるわけだ。
説明を受けた我々は、薬師寺先生の「H古墳」へのこだわりに納得し、あれほど怒った理由も理解できた。そこへ奥さんがお茶を出してくれ、菓子を土産にしてくれた。日が暮れて退席するころには、薬師寺先生はいつもの穏やかな笑顔になっていた。
いずれにしても「H古墳」は、敬愛する近藤先生が指摘したままになっている極めて重要で、思い入れのある古墳だったのである。そう思うと、薬師寺先生の思い入れはこの「H古墳」だけではなく、全ての項目が同じ比重で書かれていると想像できる。『吉備の古代史事典』の一つひとつの項目は先生の礫(つぶて)である。項目説明は単なる解説はなく言霊(ことだま)だ。さらに言えば、項目は「薬師寺考古学」の結晶の「粒」であり、事典は薬師寺先生が書き込めた約700個の言霊の集積である。
内容的にも、吉備の考古学を語るときこれら用語をマスターしておけば、考古学者とだって議論できる事典になっている。入手したらまず神棚にお供えし、いつも側に置いておきたい。
少し前、薬師寺先生から電話を受けた際に「人物など項目の抜けがあってはいけないので、見ておいて」と言われていた。校了が近くなったようなので、担当の山川氏からゲラを見せてもらい索引を見ていくと、「H古墳」があった。これは、同じ著者の既刊『考えながら歩く吉備路 下』(2009年刊)にも同じ表記で載っており、以前、読者で古墳好きのW氏から「あの古墳には名前が付いているよ」と言われていた。
この古墳はサントピア岡山総社(旧厚生年金休暇センター)の東にある古墳で、近くには「秦上沼古墳」がある。昨年、そのサンピアの西の山の尾根で、巨大な前方後方墳「一丁グロ古墳」が発掘された。この現地説明会で配布された総社市教育委員会のレジメ資料には、「秦上沼古墳」の近くに「秦大グロ古墳」が記してあり、その他に近くに古墳の表記はない。この資料は私も見ていた。W氏は、「H古墳」は「秦大グロ古墳」と名前があるのに、なぜイニシャルで呼ぶのかと思っていたのだ。
『吉備の古代史事典』のゲラを見て、私が「H古墳には名前がついているのでは」と発言したことがお叱りを受ける発端だった。電話口で先生は、「つまり、わしが書いていることが信用できんということか」「君はH古墳に行ったんか。見て言いよんか」と言いながら次第に興奮しはじめた。私は思わず「総社の教育委員会で確認してみます」と言った。これがさらに火に油を注いだ。先生は激怒して「この古墳は3人しか知らん。近くにあった神社の宮司と近藤義郎先生(考古学者)。二人とも亡くなったんで、わししか知らん古墳じゃ。総社の教育委員会が知るわけながろうが。わしを疑って教育委員会の方を信用しとんじゃな」と。もう収拾がつかなくなっていた。私は謝るしかなかった。そのうちに電話が切れた。
しばらくして夕方、再び先生から電話があった。「君は謝りに来る言うといて、来るんか来んのか。来るんなら何時にくるのか。黙って人の家にくるなあ、失礼じゃろうが!」。私は「すぐ行きます。6時半には行きます」と伝えて、山川氏と二人で薬師寺邸に向かった。(※薬師寺邸でのことは9月6日山川ブログ参照)。失礼な発言をしたこと、教育委員会に確認しようとしたことなどを深くお詫びをした。しばらくすると、先生は少し穏やかな表情になって、「H古墳」のことを説明をしてくれた。
大和には特殊器台の破片が出る古墳が、箸墓古墳と中山大塚古墳、西殿塚古墳の3つある。吉備では矢藤山古墳と宮山古墳の2つ。かつて、この「H古墳」に近藤義郎先生と連れ立って行ったとき、近藤先生は土器を拾って「都月型か、その前の型かもしれんなあ」と言ったという。もしこの「H古墳」を発掘して宮山型の特殊器台が出たとなれば、吉備でも3つとなる。重要な前方後円墳古墳だという。
このことを私なりに解釈すると…。「H古墳」を発掘調査して特殊器台のことがはっきりすれば、全国に普及していった前方後円墳の発生に吉備が深くかかわり、吉備とヤマト政権との深い関係を解明することになる。もし宮山型特殊器台が出たとなれば、吉備とヤマトの関係を示す物証が吉備に1つ増えることになり、最古の前方後円墳が大和にあるのか、吉備にあるのかも分かることになるかもしれない。日本考古学史上、極めて重要な問題を秘めていることになるわけだ。
説明を受けた我々は、薬師寺先生の「H古墳」へのこだわりに納得し、あれほど怒った理由も理解できた。そこへ奥さんがお茶を出してくれ、菓子を土産にしてくれた。日が暮れて退席するころには、薬師寺先生はいつもの穏やかな笑顔になっていた。
いずれにしても「H古墳」は、敬愛する近藤先生が指摘したままになっている極めて重要で、思い入れのある古墳だったのである。そう思うと、薬師寺先生の思い入れはこの「H古墳」だけではなく、全ての項目が同じ比重で書かれていると想像できる。『吉備の古代史事典』の一つひとつの項目は先生の礫(つぶて)である。項目説明は単なる解説はなく言霊(ことだま)だ。さらに言えば、項目は「薬師寺考古学」の結晶の「粒」であり、事典は薬師寺先生が書き込めた約700個の言霊の集積である。
内容的にも、吉備の考古学を語るときこれら用語をマスターしておけば、考古学者とだって議論できる事典になっている。入手したらまず神棚にお供えし、いつも側に置いておきたい。
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昨年発刊した『愛だ! 上山棚田団』(協創LLP出版プロジェクト・編)が、第25回「地方出版文化功労賞」奨励賞を受賞した。この作品は、吉備人出版の15周年記念事業として一般から作品募集し、30点前後の作品が集まった中で最優秀賞として選定したものだ。
このときの作品募集はオールジャンルだったので、エッセーや詩、紀行文、小説のようなものなど、様々な内容の作品が集まった。募集告知の宣伝には大きな費用をかけず、フライヤーを作成したりホームページで告知した程度。集まった全ての作品に目を通してみると、作品の完成度や面白さなどから2、3作品が際立っていた。その中で、この作品に決めたのは、当時「本づくりはまちづくり」を会社のテーマにしていたからだ。このテーマに照らし合わせると、『愛だ! 上山棚田団』が第一候補となる。社内でも大きな意見の違いはなく、最終的には代表が決めた。
「最優秀作品は本にします」ということにしていた。この作品には、関西の若い人たちが耕作放棄地となった美作市の集落に入り、棚田の復興をしている様子が荒削りな文章ながらも楽しげに描かれていた。この内容を本にすることは、地方の田舎で起こっている問題をなんとかしようと頑張っている人たちを応援することになるかもしれない。現地で彼らに会ってみようと、代表と2人で美作市上山の棚田地帯に出かけた。彼らに会って現地を案内してもらい話を聞いてみると、この集落での活動に夢を持ち、棚田の復活だけにとどまらず大きな可能性を感じることができた。それから約1年後、本の発刊となった。
今から思うと、我々の作品応募の情報を大阪でキャッチして応募してくれたのだから、縁があったわけだ。彼らは今も2年前以上にパワフルで、日本の中間山地の問題を解決してくれそうな勢いで活動し、情報発信している。農村問題に関心のある人には、目が離せない存在になっているようだ。
15周年記念事業で実施した作品募集に、自分たちが彼らの作品を最優秀賞として選んでほんとに良かった。それが「地方出版文化功労賞」奨励賞を受賞したのだから、なおのことうれしい。彼らにもますます活躍していってほしいと心から思う。
「地方出版文化功労賞」については一般への認知度が低いのか、山陽新聞でもこのニュースはほんの数行の短信扱い。少しでも宣伝になればと、自分の名刺にこの賞の受賞のことを記した。
このときの作品募集はオールジャンルだったので、エッセーや詩、紀行文、小説のようなものなど、様々な内容の作品が集まった。募集告知の宣伝には大きな費用をかけず、フライヤーを作成したりホームページで告知した程度。集まった全ての作品に目を通してみると、作品の完成度や面白さなどから2、3作品が際立っていた。その中で、この作品に決めたのは、当時「本づくりはまちづくり」を会社のテーマにしていたからだ。このテーマに照らし合わせると、『愛だ! 上山棚田団』が第一候補となる。社内でも大きな意見の違いはなく、最終的には代表が決めた。
「最優秀作品は本にします」ということにしていた。この作品には、関西の若い人たちが耕作放棄地となった美作市の集落に入り、棚田の復興をしている様子が荒削りな文章ながらも楽しげに描かれていた。この内容を本にすることは、地方の田舎で起こっている問題をなんとかしようと頑張っている人たちを応援することになるかもしれない。現地で彼らに会ってみようと、代表と2人で美作市上山の棚田地帯に出かけた。彼らに会って現地を案内してもらい話を聞いてみると、この集落での活動に夢を持ち、棚田の復活だけにとどまらず大きな可能性を感じることができた。それから約1年後、本の発刊となった。
今から思うと、我々の作品応募の情報を大阪でキャッチして応募してくれたのだから、縁があったわけだ。彼らは今も2年前以上にパワフルで、日本の中間山地の問題を解決してくれそうな勢いで活動し、情報発信している。農村問題に関心のある人には、目が離せない存在になっているようだ。
15周年記念事業で実施した作品募集に、自分たちが彼らの作品を最優秀賞として選んでほんとに良かった。それが「地方出版文化功労賞」奨励賞を受賞したのだから、なおのことうれしい。彼らにもますます活躍していってほしいと心から思う。
「地方出版文化功労賞」については一般への認知度が低いのか、山陽新聞でもこのニュースはほんの数行の短信扱い。少しでも宣伝になればと、自分の名刺にこの賞の受賞のことを記した。
吉備路周辺には数千もの古墳があるといわれる。古代吉備の中枢部エリアなので、平地を見渡せる山や小高い丘にはたいてい古墳がある。国分寺の周辺はもちろんだし、例えば、それより東の県営グランドあたりで見える周辺の山にもたいていある。
高梁川以西にも多い。私が中学・高校と自転車通学した、高梁川に注ぐ新本川周辺の南北の丘陵地もそうだ。見渡しのよい山には古墳がある。これらの古墳の存在は、通学していた当時は知らなかった。いつも目にしていた景色の中の山に古墳があるのを知ったのは、大人になってから。実際にそれらの古墳を講師について解説付きで巡ったのは3、4年前のことだ。
地元の人にとって古墳は単なる昔の墓。子どもの頃は「気持ちが悪い」「バチが当たる」と年寄りに言われていた。だから古墳が荒らされず守られていたともいえるが、目の前にある古墳を通して地元の歴史へ興味を持つことを封じられていたともいえる。実際、私も地元の古代史に興味を持ち出したのは社会に出てからだ。「なんで大人は、もっと古墳のことを教えてくれなかったのか」とさえ思う。
総社のNPO法人ちみちさんが数年前、古墳に詳しい人たち(コフニスト)と協力して、古墳を自転車で巡るコースを考案した。彼らが講師となって一般の人を案内するイベントも実施した。私も2回ほど参加して、意外だった場所に古墳の存在を知り、大小の石室に入ってみる経験は新鮮で、歴史を体感できる面白さがあった。 自転車で回るのもいい。クルマでは駐車場に困るし、道も細い。アップダウンは少ないし、どこにでも停めることができるので、自転車と古墳巡りは相性がよいのだ。
しかも、このNPOちみちさんと古墳好きの人たちは、それぞれの古墳の評価を5つ星で評価した。星では面白くないので古墳マークにし、例えば「ビギナーお勧め度」「マニアお勧め度」「総合評価」などの項目で採点。そしてコースにはスイーツや饅頭を食べることのできる店、休憩所も入れた。このグループには女性が多く、「女子発想」がいかされている。
こうした古墳と自転車がコラボする企画は、地元で育った人だけではできなかったのではと思っている。ちみちさんは、結婚などで総社にきた人などと混成チーム。「よそ者」の視点が企画を大胆にして、観光開発につなげる道を開いたと評価している。
この内容を本にと企画を持ちかけて3年。出来上がったのが新刊『いにしえ吉備の自転車古墳さんぽ』。自転車と古墳をコラボさせた「画期的な本」だと思っている。自転車で街巡りを案内する本はあるが、古墳を案内する本はないだろう(日本初では)。古墳巡りのベストシーズンは秋から冬。秋になって少し涼しくなったら自転車で吉備路へ行ってみよう! 吉備の歴史に興味を持つきっかけになるはずである。
http://os7.biz/u/WMx2i
高梁川以西にも多い。私が中学・高校と自転車通学した、高梁川に注ぐ新本川周辺の南北の丘陵地もそうだ。見渡しのよい山には古墳がある。これらの古墳の存在は、通学していた当時は知らなかった。いつも目にしていた景色の中の山に古墳があるのを知ったのは、大人になってから。実際にそれらの古墳を講師について解説付きで巡ったのは3、4年前のことだ。
地元の人にとって古墳は単なる昔の墓。子どもの頃は「気持ちが悪い」「バチが当たる」と年寄りに言われていた。だから古墳が荒らされず守られていたともいえるが、目の前にある古墳を通して地元の歴史へ興味を持つことを封じられていたともいえる。実際、私も地元の古代史に興味を持ち出したのは社会に出てからだ。「なんで大人は、もっと古墳のことを教えてくれなかったのか」とさえ思う。
総社のNPO法人ちみちさんが数年前、古墳に詳しい人たち(コフニスト)と協力して、古墳を自転車で巡るコースを考案した。彼らが講師となって一般の人を案内するイベントも実施した。私も2回ほど参加して、意外だった場所に古墳の存在を知り、大小の石室に入ってみる経験は新鮮で、歴史を体感できる面白さがあった。 自転車で回るのもいい。クルマでは駐車場に困るし、道も細い。アップダウンは少ないし、どこにでも停めることができるので、自転車と古墳巡りは相性がよいのだ。
しかも、このNPOちみちさんと古墳好きの人たちは、それぞれの古墳の評価を5つ星で評価した。星では面白くないので古墳マークにし、例えば「ビギナーお勧め度」「マニアお勧め度」「総合評価」などの項目で採点。そしてコースにはスイーツや饅頭を食べることのできる店、休憩所も入れた。このグループには女性が多く、「女子発想」がいかされている。
こうした古墳と自転車がコラボする企画は、地元で育った人だけではできなかったのではと思っている。ちみちさんは、結婚などで総社にきた人などと混成チーム。「よそ者」の視点が企画を大胆にして、観光開発につなげる道を開いたと評価している。
この内容を本にと企画を持ちかけて3年。出来上がったのが新刊『いにしえ吉備の自転車古墳さんぽ』。自転車と古墳をコラボさせた「画期的な本」だと思っている。自転車で街巡りを案内する本はあるが、古墳を案内する本はないだろう(日本初では)。古墳巡りのベストシーズンは秋から冬。秋になって少し涼しくなったら自転車で吉備路へ行ってみよう! 吉備の歴史に興味を持つきっかけになるはずである。
http://os7.biz/u/WMx2i
岡山出身の河本準一さんへ。
今度、岡山に帰省するときは、堂々と帰って来てください。人生いろいろありますよ。あんなことにくじけず、また私たちを笑わせて下さい。あなたが舞台やテレビで活躍するのを楽しみにしています。忙しいと思いますが、お盆と正月など、できるだけお母さんいる岡山に帰ってきてあげてください。
絵本『キミが泣いていたら』( http://goo.gl/RpiFV )の著者清水光博さんと吉備人出版は、あなたを応援しています。
絵本の帯に、コメントを寄せてくれてありがとう。著者の清水さんと同じ中学校ということで、清水さんの手紙に応えてくれて嬉しかったです。最初、半信半疑だったので、コメントが届いたときには驚きました。
発刊する少し前、このあなたが不正受給をしていたわけでもないのに、国会議員の政治的な発言に利用され、週刊誌でタタかれていました。そんな世間のムードに乗って、津山市長が河本氏に対して「適格性に欠けるのでは」と発言したことは恥ずかしいかぎりです。それなら、最初から観光大使を頼まなければよかったのに…。津山市の観光大使を辞任されたことは残念でした。もう津山市の宣伝をしようなんて思わないでしょうね。
その後、反省されている記者会見は拝見しました。それで十分です。親孝行は大切なことですが、なかなか誰でもできることではありません。自分の親にどれだけ親孝行ができていることか、他人に親の孝行ができていないことを批判などできないはずです。
河本さんが週刊誌で問題になったとき、この絵本は発刊直前でした。この帯をこのまま使うと世間の批判を受けることになるかもしれないと、帯の内容を差し替えることを一瞬、考えました。しかしよく考えると、河本さんが悪事を働いたということでもないし、本の趣旨からいってもこんなときこそ応援する本であるべきと考えました。著者の清水さんに電話したら、清水さんも同じことを考えていました。
この絵本は、「落ち込んだ人や困っている人など、心に雨が降っている人の心を晴れにするために制作されました。あなたの笑いも、 人の心を『晴れ』にしてくれます。元気になる人がたくさんいるはずです。ますます活躍されることを祈っています。
今度、岡山に帰省するときは、堂々と帰って来てください。人生いろいろありますよ。あんなことにくじけず、また私たちを笑わせて下さい。あなたが舞台やテレビで活躍するのを楽しみにしています。忙しいと思いますが、お盆と正月など、できるだけお母さんいる岡山に帰ってきてあげてください。
絵本『キミが泣いていたら』( http://goo.gl/RpiFV )の著者清水光博さんと吉備人出版は、あなたを応援しています。
絵本の帯に、コメントを寄せてくれてありがとう。著者の清水さんと同じ中学校ということで、清水さんの手紙に応えてくれて嬉しかったです。最初、半信半疑だったので、コメントが届いたときには驚きました。
発刊する少し前、このあなたが不正受給をしていたわけでもないのに、国会議員の政治的な発言に利用され、週刊誌でタタかれていました。そんな世間のムードに乗って、津山市長が河本氏に対して「適格性に欠けるのでは」と発言したことは恥ずかしいかぎりです。それなら、最初から観光大使を頼まなければよかったのに…。津山市の観光大使を辞任されたことは残念でした。もう津山市の宣伝をしようなんて思わないでしょうね。
その後、反省されている記者会見は拝見しました。それで十分です。親孝行は大切なことですが、なかなか誰でもできることではありません。自分の親にどれだけ親孝行ができていることか、他人に親の孝行ができていないことを批判などできないはずです。
河本さんが週刊誌で問題になったとき、この絵本は発刊直前でした。この帯をこのまま使うと世間の批判を受けることになるかもしれないと、帯の内容を差し替えることを一瞬、考えました。しかしよく考えると、河本さんが悪事を働いたということでもないし、本の趣旨からいってもこんなときこそ応援する本であるべきと考えました。著者の清水さんに電話したら、清水さんも同じことを考えていました。
この絵本は、「落ち込んだ人や困っている人など、心に雨が降っている人の心を晴れにするために制作されました。あなたの笑いも、 人の心を『晴れ』にしてくれます。元気になる人がたくさんいるはずです。ますます活躍されることを祈っています。
新刊『青史1』は「倉敷新聞」の1面コラム「青史」の昭和56年と57年の2年間分を収録している。「青史」とは、紙のなかった古代中国で青色の竹簡に文字を書いたことから「記録」とかの意味があるそうだ。新聞の1面コラムは、朝日新聞でいえば「天声人語」、読売新聞では「編集手帳」、「山陽新聞では「滴一滴」に相当する。
「倉敷新聞」は昭和8年に創刊し、平成12年に廃刊している。戦時中の休刊はあるものの67年目の廃刊だ。「青史」欄は創刊1万3000号を記念して昭和56年にスタートした。本書では連載開始から翌年末までの約200編を収録。昭和56年と57年のことだから、今から30年前の日々が綴られている。
30年前の倉敷は何が起こっていたのか。昭和55年には倉敷新庁舎が建っている。56年には倉敷橋上駅が開業。58年には倉敷駅ビルがオープンし、倉敷市立中央図書館や市立美術館、自然史博物館が開館している。
岡山県全体を見ると、知事は長野士郎。56年に吉備高原都市の起工式をしている。その3年前に瀬戸大橋が着工して、苫田ダム建設の計画が起こり、新岡山空港建設に向けて動いていた。日本は高度成長期で、長野県政は次々と箱ものを建設しようとしていた時期だ。県のキャッチフレーズは「燃えろ岡山」。
例えば、長野県政がこの時期に巨額の予算を組んで進めた大型プロジェクトは、30年後にどうなったか。岡山空港、瀬戸大橋、吉備高原都市、岡山リサーチパーク、チボリ公園、苫田ダム、スペイン村、ファーマーズマーケット、県立大学、CONVEX岡山、岡山テルサなど。成果のあったもの、無かったもの…。財政難になる心配はなかったのか…。その当時では予測できなかったことが、30年前を経って振り返って検証することができる。それは次の30年を考えるときに必要だ。
「青史」は日々書かれたもので、市制のことや流行の風俗、年中行事のことなど、内容は多岐にわたる。商業圏の移動や行政の施策、財政難、公害などの社会問題…。当時とすっかり様変わりしたことや、相変わらず同じ問題を引きずっていることもある。過去を振り返ることは、倉敷のまちづくりを考えるときに不可欠だ。「青史」を役立ててほしい。
「天声人語 書き写しノート」というものがあって、写経のようになぞるノートが売れているらしいが、そこまでしなくてもいいが。
「倉敷新聞」は昭和8年に創刊し、平成12年に廃刊している。戦時中の休刊はあるものの67年目の廃刊だ。「青史」欄は創刊1万3000号を記念して昭和56年にスタートした。本書では連載開始から翌年末までの約200編を収録。昭和56年と57年のことだから、今から30年前の日々が綴られている。
30年前の倉敷は何が起こっていたのか。昭和55年には倉敷新庁舎が建っている。56年には倉敷橋上駅が開業。58年には倉敷駅ビルがオープンし、倉敷市立中央図書館や市立美術館、自然史博物館が開館している。
岡山県全体を見ると、知事は長野士郎。56年に吉備高原都市の起工式をしている。その3年前に瀬戸大橋が着工して、苫田ダム建設の計画が起こり、新岡山空港建設に向けて動いていた。日本は高度成長期で、長野県政は次々と箱ものを建設しようとしていた時期だ。県のキャッチフレーズは「燃えろ岡山」。
例えば、長野県政がこの時期に巨額の予算を組んで進めた大型プロジェクトは、30年後にどうなったか。岡山空港、瀬戸大橋、吉備高原都市、岡山リサーチパーク、チボリ公園、苫田ダム、スペイン村、ファーマーズマーケット、県立大学、CONVEX岡山、岡山テルサなど。成果のあったもの、無かったもの…。財政難になる心配はなかったのか…。その当時では予測できなかったことが、30年前を経って振り返って検証することができる。それは次の30年を考えるときに必要だ。
「青史」は日々書かれたもので、市制のことや流行の風俗、年中行事のことなど、内容は多岐にわたる。商業圏の移動や行政の施策、財政難、公害などの社会問題…。当時とすっかり様変わりしたことや、相変わらず同じ問題を引きずっていることもある。過去を振り返ることは、倉敷のまちづくりを考えるときに不可欠だ。「青史」を役立ててほしい。
「天声人語 書き写しノート」というものがあって、写経のようになぞるノートが売れているらしいが、そこまでしなくてもいいが。
プロフィール
HN:
執筆:金澤健吾
性別:
男性
自己紹介:
吉備人出版 取締役。
方谷研究会。
おかやま自転車ネット。
twitter/kibitoman
岡山の古代・中世・戦国・近世など郷土史大好き。岡山本も大好き。自転車、ジョギング、自然好き。ジャズ、ロックなど音楽好き。子育て中。
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