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吉備人出版・金澤健吾の編集日和です。
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親のことならまだしも、親の親より前の世代のことをどれくらい知ってるだろうか。祖父祖母のことぐらいまではなんとか聞いてはいるが、それ以上の世代になるともう分からない。
最近、祖父の「死」について知る機会があった。「戦死」とは聞いていたが、死後に届いたという「戦死者履歴表」というものを見せられたからだ。昨年秋、『岡山歩兵第十連隊史』という古い本と巡り会った。この本を実家に持ち帰り開いてみると、祖父の名前があった。母親に見せると、古いタンスの木箱から「戦死者履歴表」を取り出してきた。祖父の上官が手書きしたもので、死後直後に遺族に送ってきたものだ。祖父の戦死は、昭和12年の32歳のときだった。支那事変の引き金となった盧溝橋事件が起きた年だ。著作権も切れているし、長くなるがこの履歴表を史料として記しておく。

「戦死者履歴表」  (※満州の地名に当て字を使用)
所属:歩兵第十連隊第八中隊 職:指揮班
死亡月日時:九月二十八日 死亡場所:興済鎮野戦病院
事由:戦傷死
【戦傷死までに於ける経歴の大要】
動員下令により、昭和十二年 月 日歩兵第十聯隊に応召集、同日第八中隊となり、八月十日神戸港出帆、八月十五日太沽(中国)上陸。その後、行軍して十八日に天津着。二十日津浦沿線掃討のため同地出発。楊柳青、良王荘を経て、同月二十二日に駅警備のため再び楊柳青に帰還。二十六日に同地出発、静海に着。軍旗の下に参す、二十九日陳官屯を攻撃に大隊の右側衛として参加。九月四日唐官屯攻撃に於いて聯隊予備隊として軍旗を護衛、(九月五日〜九月九日)間に大張屯において聯隊予備隊、同日後、屯の大隊復帰、九月十日馬厥攻撃に決死大隊として参加。(九月十一日〜九月二十日)師団予備として青縣駐留、滄州攻撃の為二十一日興済鎮を出発。
【戦傷死当時の奮闘状況調製官の所見】
馬厥が陥落するや疲労を慰する寸暇もなく敵を猛追撃して滄州に迫り、準備すること十日間我磯谷兵団の作戦全く整い、吾々将兵は今や遅しと前進命令を鶴首す、当時、我赤柴部隊は師団右翼隊の第一線として第一大隊を最前線に展開せしめ直ぐ至近に於いて敵を睥睨〔へいげい・にらみつける〕す、二十一日に突如、攻撃前進の命下り一勢に前進を開始し彼我の銃砲声殷々として耳を聾し壮烈の極みなり。我第二大隊は聯隊予備隊として第一大隊の直後を弾雨を潜りて前進を継続す、滄州陣地は所謂最後の抵抗線として特に宋哲元の重要視せし所にして其陣地たるや水壕、鉄条網、掩蓋を以て形成し、実に堅固を極め多数の督戦隊を背後に配して退却を戒め以て死物狂いの抵抗を試みたり。猛攻に猛攻を重ねて主陣地の第一線を攻略し続いて第二線西花園陣地に向かい攻撃中に夜に入り多大の犠牲に屈せす益々敵気心を湧起し夜襲を決行して隊次肉迫中、第一大隊と第一線を交代、堅陣を攻撃すべしとの聯隊命令を二十三日午前八時受領、中隊は直ちに浸水のため狭隘〔きょうあい・狭い〕(攻撃正面三〇メートル)なる陣地に於いて第一中隊と交代力攻めを開始す、斜射側射の壕外に身を躍らして突入し、掩蓋重機の的たる壕内に手榴弾を投擲しつつ肉迫し白兵を以て敵を刺殺しつ、午後五時遂に西花園北端に前進す、此に於いてか敵の抵抗益々猛烈にして適陣地を百メートルに控え夜に入る、中隊長は諸般の状況を考察し西花園陣地奪取のためには夜襲決行に過かすなし之しか準備を周到に第二小隊、中隊長、第三小隊、第一小隊の順序に午前二時二十分遂に前進を開始す、伍長は中隊指揮班要員として常に軽快機敏に弾雨を潜りて連結に任じもっぱら中隊長の指揮を容易ならしめたり、壮烈なる夜襲により陣地の一角を占領し払暁と共に歩砲の協同宜しきを得、中隊突撃に移り、伍長は最先頭に銃剣を振りて前進中、敵前百メートル付近に到りし際、敵砲弾に左腕に重傷を受け、切断手術するの止むなきに至れり、以来興済鎮野戦病院において加療中の所九月二十八日、遂に他界せり。
奮戦の状況以上の如く、決死報公の誠を尽せしものにして真に軍人の亀鑑(模範・手本)として敬仰すべき人物と認む。

祖父は、最初の徴兵を近衛兵として東京に赴いた。帰還してすぐにまた徴兵され、赤柴隊という岡山出身者の部隊に配属。中国に赴いて前線で闘い、銃弾を受けて野戦病院で戦死している。日中戦争の初期のころは、上官がこうした戦死履歴を書く余裕もあったのだろう。孫である私がこれを読んで、祖父が中国大陸で非人道的なことをするような人物でなかったことにほっとして、それを誇りにも思った。
戦死した祖父には、当時4歳と1歳の子どもがいた。4歳だったのが私の母親だ。戦争未亡人となった祖母は、女手一つで2人を育てるのに苦労している。
この満州事変から太平洋戦争へと突き進み、昭和20年に敗戦。軍人も一般市民も含めて何百万人もの人が死んだ。暴走した軍部上層部(国家)の責任は重い。
昭和初期を入口にして、もう少し「昭和史」の森に分け入っていこうと思う。日本史の入口へは、地方からでも、個人的なことからでも、どの時代からでも入っていける。
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執筆:金澤健吾
性別:
男性
自己紹介:
吉備人出版 取締役。
方谷研究会。
おかやま自転車ネット。
twitter/kibitoman
岡山の古代・中世・戦国・近世など郷土史大好き。岡山本も大好き。自転車、ジョギング、自然好き。ジャズ、ロックなど音楽好き。子育て中。
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